元副会長 山根さんより3篇寄稿頂きました。

山根さん(大津高 昭和37年卒)は東京在住の時に、築地西本願寺で浄土宗本願寺の布教使になられました。

現在は岡山県玉野市に近い、香川県直島にお住まいです。直島はベネッセコーポレーションが

力を入れ 草間彌生さんの「赤カボチャ」や「黄かぼちゃ」を初め野外彫刻品が設置され

安藤忠雄さん設計の「地中の美術館」など有名なスポットになっています。

日本子守唄協会(現在ララバイ協会)初代会長の西舘好子様との交流から機関紙「ララバイ通信」

に執筆されております。その中から「アジサイの苦い思い出」、「海に落ちた黄色いカボチャ」、

こども食堂「いただきます。ごちそうさまは、だれに言うの?」の3篇を寄稿頂きました。

 

①アジサイの苦い思い出

      南無庵 庵主 山根光惠

            山口県長門市出身

            浄土真宗本願寺派布教使

ここ直島では、島の人口が少ないことでも今回コロナのワクチンでは、とてもありがたい恩恵を受けた。6月中に高齢者の接種が完了。若い人たちへの接種が始まった。活動的な若い人たちの方が感染のリスクが多いのだから、早く若い人に接種してあげて!と思う。

自粛のためどこにもいかないが、唯一の癒しが家の周りに植えた花たちだ。梅雨時は、家の周囲に植えたアジサイが満開である。植えた時は小さかった苗が大きくなり、色とりどりに咲いている。

アジサイには、幼い頃のちょっぴり淋しい思い出がある。

小学生の頃、よく生徒が自分の家で咲いた花を摘んで教室の先生の机の上に飾っていた。子どもにとって、それは誇らしい行為であり、皆、競うように家の庭から花を摘んでいったものだ。春の花が一段落したら、「いよいよ私の出番だ!」と胸が躍った。なぜなら私の実家のお寺では、本堂の裏の庭にたくさんの美しいアジサイが咲いていたのだ。私は、朝早く起きてアジサイを摘み、新聞紙に包んで学校に持っていった。先生の机の上に飾ると、まるでドッジボールのように立派な花が、机の上を占領した。

ただ、実際に教室に飾ってみると、アジサイの薄く青い色は、赤やオレンジと違って、ちょっと寂しい。加えて百合や薔薇のような、かぐわしい匂いもしない。さらに誤算だったのは、アジサイの花はとても水揚げが悪く、長くもたないことだ。朝、一度切ったら、たとえ水の入った花瓶に入れていても、夕方にはしおれてしまい、翌日にはゴミ箱行きにならざるを得ない。あの、ゴミ箱にせっかく持ってきたアジサイを捨てた時のむなしい気持ちは、今も私の心の中に残っている。

そんな苦い思い出もあるアジサイだが、それでも、子どもの頃に裏山の斜面に咲いて一面を青く染めていた美しい光景は今でも忘れがたく、南無庵を建てた際は一番に植えた。

最近のアジサイは、青色だけではなく、赤色やピンク色などもあり、花の形も多様で華やかだ。驚くほどたくさんの種類がある。そして咲き始めから終わりまで、二ケ月以上は皆の目を楽しませてくれる。

現在、日本で一般的に親しまれている丸いアジサイは「西洋アジサイ」といって、江戸時代にヨーロッパに渡って品種改良されたものが、逆輸入され広まったらしい。江戸時代に、長崎・出島のオランダ商館の医師として来日したシーボルトが日本のアジサイを愛し、自身が好意を寄せていた「オタキさん」という女性の名前から「otaksa(オタクサ)」という学名をつけて海外に紹介したという話もある。

正式な学名としては認められなかったらしいが、ちょっと粋な話だ。さて、今やアジサイも多彩な色を楽しめる訳だが、『仏説阿弥陀経』のなかに、「青色青光」、「黄色黄光」、「赤色赤光」、「白色白光」という言葉が出てくる。これは「お浄土に咲く花の有様」を表した言葉だ。

コロナ禍で不安定な今は、世界中、いとも簡単に分断が起こってしまう。それぞれ色は違っても、一色に染めるのではなく、それぞれ違いを認め合いながら、共に輝くことが大切なのではなかろうか。「それぞれが、それぞれに色を持ち、その場で光輝く(咲く)ことが尊いことである。」と私は思っている。

 

②海に落ちた黄色いカボチャ

コロナも終息になるのかと淡い期待を抱き、go-toキャンペーンなどというものに浮かれてしまった去年の夏休みであったが、今年になってからの感染者はすさまじいものがり、観光地の直島も訪れる人も少ないひっそりとした静かな夏休みとなった。ワクチン接種も早々と済ませた島の高齢者たちは、出かけることもなく、外に出れば暑いのでひたすら家の中でテレビ鑑賞するしかなかった。

数年前から、テレビでは年中、異常気象ということばをきく。気温の異常もさることながら、雨が降ればこれも、想像を超えた量の雨で大被害も毎年のように起こり、その悲惨な被害には毎回目を覆いたくなる。

今年も9月の台風シーズンよりも早く大雨の災害がたくさん起こり、土砂崩れの被害も繰り返しテレビでながれ、胸がいたくなった。

もうこれ以上、大きな被害は出ませんようにと願っていたが、88日ころから西日本も、大雨注意報が出て、特に88日の夜からは激しい雨風となり、寝ていても、家の屋根が飛んでしまうほどの雨風であった。9日の朝になっても雨は止まず、風も衰えを知らず吹き荒れていた。みんな家の中でひっそりと通過するのを待っているという状況の時、子供たちから、「黄色いカボチャが海に流され大変なことになってるよ」というメールが届いた。見ると直島のシンボルのような黄色いカボチャがくるくると波間にただよってるではないか。かぼちゃというのが、直島といえばかぼちゃというくらい直島を象徴するもので、世界的に有名なアーティストの草間彌生さんの作品で、草間さんといえば水玉模様とかぼちゃで知らない人がないというくらい有名である。

直島にフェリーでつく宮浦の港には大きな赤いカボチャが出迎える。島に着いた時、帰るとき、必ずみんな、この赤いカボチャには目を引かれ、記念撮影する。

そして、島の反対側の海辺、ベネッセのホテルや美術館がある近くの海辺にはもう一つ黄色いカボチャがある。そのかぼちゃは海辺から突き出した突堤の先に係留されていて、満潮の時には、かぼちゃが海に浮かんでいるように見えて、これも作品として素晴らしい。こちらも撮影スポットで、いつも行列ができる。

私の旅行鞄にもかぼちゃのキーホルダーをつけているが、時々「直島に行きましたか?」とか、「直島に行ったことがありますよ」とか声をかけられることがある。

その黄色いカボチャが三つに割れて、海に漂よっている映像がネットで世界中に流れたのだ。今はネット時代であっという間に世界中の人が知ることになる。草間さんのあの独特の水玉、書き始める前は長い時間、瞑想をして、それから書き始めるのだと、ご自身の本に書かれていた。大変な集中力であの水玉模様がかかれているのだ。

赤と黄色のかぼちゃ2つで数億円すると聞いたことがある。その直島の宝の一つが嵐の海にただよっている。

何とかうまく回収できたようであるが、1日も早く元のすがたに戻って、また、たくさんの人のカメラの被写体になって欲しいものである。

翌日、雨が止んだ時を見計らって現場に行ってみるといつもの場所にかぼちゃはなく、4か所つながれていたコンクリートの支柱はぽっきりと折れていた。

その後も雨は数日続き、梅雨のようなお天気が続いたが、10日後の夕方、南無庵から見える東の海に半円形の見事な虹がかかった。それはそれは美しい虹で思わず撮影したが、いままでみたこともないような美しいものであった。どうぞコロナも異常気象もこのくらいにしてください。私たちも身の程を知った生活をしますからと、手を合わせた。

 

③いただきます、ごちそうさまは、

だれに言うの?(子ども食堂)

令和も、あっという間に4年目となった。コロナという未知の出来事の経験で明け暮れている令和である。早くコロナが収束しないかと、そればかりを念じている日々が続く。

世界中の人たちが自由に飛び回り、行き来していたあの日常は、いつになったら戻るのであろうか?

さて今回は私の故郷で行われている「子ども食堂」のことを紹介したいと思う。私の故郷は、山口県長門市というところだ。「市」といっても小さい街なので、昔は知らない人も多く、長門市のことを説明するときはいつも、「維新の町、萩(市)の隣です。」と言っていた。さすがに明治維新のことを知らない人はいないからだ。

しかし、いつの頃からか、童謡詩人の金子みすゞさんの詩が有名になったことで、長門市は「みすゞさんの出身地です」と説明するとわかってもらえることが多くなった。「ああ、金子みすずさん、知っていますよ」と言ってもらえるので、とても誇らしい。

また、東山魁夷画伯が、皇居の新宮殿ができる時、ホールに飾る絵として制作した『朝やけの潮』は、長門市の青海島という地の風景がモチーフとなっている。この海と岩の風景は、是非、皆さんに見ていただきたい。

金子みすゞさんや青海島の風景とともに、もう一つ、長門の自慢がある。それは、人々の「こころのやさしさ」である。

長門では昔から、近所の年寄りのことを「じいさま」「ばあさま」、奥さんは「ねえさま」、ご主人は「にいさま」と、それぞれの名字の下にこれらの敬称をつけて呼ぶ。「○〇ちゃん」と呼ぶのは、友達関係の場合である。この誰に対してでも「さま」付けする習慣には、何ともいえぬ、やさしさや親しみやすさ、相手を敬う気持ちが溢れている。

そして、先祖をとても大事にする土地柄のため、法事は非常に大切な家の行事となっている。浄土真宗の信仰の盛んな土地で、お寺も多い。そんな長門のお寺の子として、私は生まれた。

私たちの小さい頃は、お寺で日曜学校というものがあって、ほとんどの子どもは、そこで仏様にまつわるお話を聞いて、お供えのおさがりのお菓子をいただいたものだ。その時聞いた仏様のお話は、大人になっても記憶に残っている。

高度経済成長の波とともに、個人の生活が中心となった結果、日曜学校も自然になくなり、子ども時代にお寺におまいりするようなことはほとんどなくなった。そして今、皆が豊かになったかというと、どうなのか。今では逆に格差が生まれ、貧困に苦しむ人も多くなってきているように感じる。

そんな時代において、「皆でいろんなものを分け合おう」という精神から、お寺などで「子ども食堂」を行う運動が盛り上がっている。私の実家のお寺でも、住職とその仲間たちによって「長門ルンルン食堂」と名付けられたこども食堂が、4年前から始まった。この食堂は、貧困家庭の子どもに限らずどの家の子も利用できる。さらに独り暮らしのおとしよりたちもお手伝いがてら来てくださり、皆で一緒に楽しく食事をいただく。土地柄からか、たくさんの協力者や寄付がある。寄付は食材のほかに、燃料の提供や、時には近くの美容院の方が来て、子どもたちのカットのサービスなどもしていただいていると聞く。これこそ、本来の「布施」の心であろう。また、高校生ボランティアも多数参加していて、これが機会となり管理栄養士を目指している高校生もいるらしい。

「多くのいのちと、皆様のおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」

「尊いお恵みを美味しくいただき、ますますご恩報謝につとめます。おかげでごちそうさまでした」

これが、そのこども食堂で、阿弥陀様の前で皆揃って唱える食前と食後の言葉だ。私たちはひとりではない。仏様からいただいたご縁で結ばれて、私たちはみな一緒に強く生きています。と誓う言葉である。

いただきます。ごちそうさま― ― 普段何気なく唱える言葉の意味を、子どもからお年寄りまで一緒に考えてみる。そんな瞬間があることも、こども食堂の価値なのかもしれない。